いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

BOACスチュワーデス殺人事件

国際線スチュワーデスとして初搭乗を控えた女性が不審死体となって発見された。しかし交友関係から浮上したベルギー人カトリック神父は取り調べの途中で帰国。はたして神父の関与は?なぜ彼女は殺されなくてはならなかったのか。

概要

1959年(昭和34年)3月10日7時40分頃、東京都杉並区の大宮町を流れる善福寺川で、宮下橋下流の浅瀬に仰向けになった女性の遺体が発見された。
着衣などから、女性は世田谷区松原町に住む英国海外航空(BOAC)のスチュワーデス(客室乗務員)・武川知子さん(当時27歳)と身元が判明する。
武川さんはBOACで初めて採用された日本人乗務員の一人で、初フライトが近々予定されていたが、3月8日16時ごろ、下宿先に「叔父さんの誕生日パーティに行く」と告げて出たきり消息を絶っていた。
付近から時計やハンドバッグなどの所持品が見つかり、着衣に大きな乱れはなく外出時と同じダークグリーンのスーツ姿だったが、グリーンの外套と短靴は見当たらなかった。遺体に目立った外傷はなく、高井戸署は当初「自殺」の疑いもあるとしていた。
 
11日、慶應義塾大学法医学教室・船尾忠孝講師による司法解剖の結果、死因は水死か首を圧迫されての窒息死とみられた。だが手で首を絞めた扼殺の痕跡とみられる頸部の皮下出血、絞殺の特徴とされる眼底溢血が確認されたことで他殺の可能性が強まった。また両脚の複数個所に皮下出血があり、転倒状態で打撃を受けた際の抵抗痕とも思われた。
剖検での死亡推定時刻は10日午前5時頃とされたが、はめていた腕時計は「11時50分」で止まっており、9日23時50分に川に落ちたとも考えられた。発見場所の水深は当時20~30cmとみられ、川と言っても自殺には不向きで、彼女に周辺の土地勘があるとも考えにくく単なる転落などの事故とも思えなかった。
周辺での聞き込みで、9日の日中には現場に異常なかったことが確認された。また9日23時半頃に寒い中オーバーも羽織らず、靴も履いていない女性が声も挙げず小走りに松ノ木町方面へ駆けていったという目撃情報もあった。証言を裏付けるように被害者のストッキングの足底は汚れて破けた跡もあった。
被害者の身辺調査でも自殺の線は薄いと確認され、12日、同署は警視庁捜査一課の協力を得て捜査本部が立ち上げられた。

 

スチュワーデスになるまで

武川さんは兵庫県西宮市の出身で、東京大学出身の父親は図書館長を務めるという良家の次女で、暮らしぶりに経済的な問題はなかった。3月中にもBOACでの香港航路搭乗に向けて目下準備中で、自殺の動機は見当たらなかった。
 
スチュワーデスとして採用される以前は看護士などの経歴があった。神戸・宝塚の小林聖心女学院を卒業後、上京して新宿下落合の聖母病院看護養成所で看護医療を学びつつ、週2で高田馬場の高田外語学校にも通っていた。
1953年、神戸でも歴史のあるキリスト教系医院「万国病院(後の神戸海星病院)」に就職後、患者男性と恋仲になったが相手に妻子があった等で別れ話となった。
勤め先を眼科医院に変え、以前から顔見知りだった県庁職員の男性と真剣な交際に発展した。だがあるとき万国病院時代の相手と2人が鉢合わせて口論となり、県職の男性がビール瓶で頭部を割る等のトラブルに発展したこともあって結婚は白紙状態となった。
 
県職男性とのやりとりは続いてはいたが、武川さんは再び上京。キリスト信徒で英語ができたこともあり、57年春から中野区鷺宮の「聖オディリアホーム乳児院」に住み込みで勤めることになった。戦中にドイツ外交官だった吉沢家の養育を担当したシスター・オディリアが開設した乳児院であった。カトリック系の出版事業や育英学校などを手掛ける「ドン・ボスコ社」ともつながりがあった。

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1958年12月中旬、BOACの営業部長をしていた叔父の薦めでスチュワーデス試験を受けて採用9人の中のひとりに選ばれ、翌59年1月4日で乳児院を辞職することとなった。すぐにスチュワーデスとしてのトレーニングが開始され、ロンドン本社で実地研修を受けるなどし、2月27日に帰国した。

 

残されたマツタケ

事件間際8日夜から9日にかけての被害者の動向、誰と一緒にいたかを特定する手がかりはないものか。解剖で胃の内容物から「マツタケ」が検出されていたことから、被害者は事件前に犯人と一緒に外食していたのではないかと捜査班は推測した。
 
マツタケアカマツ林に自生するキノコとして日本で古くから愛用された食材で、適した育成条件として「栄養価が低い土地」に生える。かつて人々が狩猟や薪集めに山に入っていた時代は、山村の入会地でも繁殖していたが、今日では岩手が6割、そのほか長野、岡山など限られた地域でしか収穫されない。大正時代から都市ガスが広がり、1953年以降はプロパンガスが急速に普及して地方の山間部でも人の手が入らなくなっていった。落葉落樹が放置されて土地の栄養価が上ってしまい、マツタケが自生する場所はほとんど失われてしまったと言われている。

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事件は1959年で今に比べればまだ収穫量はあったかもしれないが、旬から時季が外れた3月のこと、希少な食材であるにはちがいない。他の内容物と照らし合わせると、被害者は死亡前に中華料理を食べていた可能性が高いと推測され、中野正雄巡査部長らはその時期にマツタケを提供していた中華料理店を洗い出して被害者の足取りを追った。
専従捜査班を設置し、管内各所に厳重調査方を手配。都内のみならず小田原、熱海、所沢、川越など首都圏一円に捜査網を広げ、該当しそうな献立が45店舗で確認されたが、時間の経過などもあり、はたして被害者本人が来店したか、誰と訪れていたかといったことまでは掴み切れず、決め手となるものは得られなかった。

 

 

相談相手

BOACの同僚への聞き込みで、ロンドン滞在中の2月7日、一緒に買い物に出た折、「大きな皮手袋」を買っていたという情報が入る。確認すると日本人男性でも手に余るほどの大きさの代物で、「車のドライビンググローブ用に」と話し、土産にしたという。
さらにかつて同僚だった乳児院の保母や看護師への聞き込みで、被害者には「結婚を前提としない相談相手」がいたことが分かってきた。手帳に記してあったことからその存在は知られてはいたが、4月に入ると周辺関係からカソリック杉並ドン・ボスコ教会のベルギー人神父ベルメルシュ・ルイズ(当時38歳)との関係が捜査線上に浮上する。
神父はドン・ボスコ出版の会計係をしており、前年58年の夏頃に武川さんがカソリック系の書物を探していたのを手伝ったことから知り合い、その後もホームを訪れるなど交際を深めていた。「明るい庶民的な神父さん」「茶目っ気のある人」といった評判も聞かれたが、過去には救援物資の横流しなどの疑惑もあったとされている。
 
事件後の目撃情報のひとつに、武川さんの下宿先近くで彼女らしき女性と外国人男性が乗ったルノー車がエンジントラブルか何かで押している姿が見られていた。神父が日頃使用する修道院の車両もルノー製であった。
またロンドン滞在中にも「小遣い稼ぎになる」と日本の郵便切手を多量に送って、現地で売って金に換えるよう指南していたとされる。

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被害者と神父との関係性に捜査陣も注目したが、重要参考人が外国人神父と報道されると外交筋からの圧力も考えられ、あからさまな捜査では支障が出るとして秘密裡に内偵が進められていた。
平塚八兵衛警部補らは神父の住む育英学校の宿舎で聞き込みをしようとしたが、英語が不得手で外国人神父らとまともに会話もできない。そこで宿舎に雇われている日本人の料理番から事情を聞こうと考えた。だが料理番は外出することも少なく、出てきても話をせずに自転車でふいと逃げてしまう。平塚の語り書き『刑事一代』では、どうにか口を割らせようと一計を案じて自転車に小細工し、料理番が自転車店へ駆け込んだところを待ち構えてようやく向こうも話に応じたというエピソードが語られている。しかし料理番からは捜査につながるような情報を得ることはできなかった。
神父が下井草教会近くの翻訳業の女性が住む一軒家に出入りしていることと聞きつけ、三日三晩張り込みを続けたが、神父たちが外出時に立ち寄って着替えなどをする場所にしている様子で、ここでも取り立てて収穫もなかった。

 

深まる疑惑

BOACに勤める武川さんの叔父は、彼女を原宿まで車で送ったことがあったと話した。英語教師をしていた叔母も、武川さんが「原宿の友達に会うと話していた」と言い、そのとき件の皮手袋を持っていったと証言した。
原宿に交友関係があったのか洗い出しを進めると、以前に武川さんと外国人男性がKホテルを利用していたことが分かり、顔写真から男性はベルメルシュ神父と断定された。ホテルの利用は、彼女が乳児院を離職した直後の1月8日。そのことを神父に追及すると、「外は寒いから暖房のある部屋で話をしたかった」と親交があったことは認めたが、肉体関係については否認した。
 
解剖で遺体からは2種類の精液が検出されていた。下着の局部面に「A型またはAB型」、膣内から「O型または非分泌型」の異なる精液反応があった。ベルメルシュ神父は血液検査を拒否したが、採取された唾液から同一型であることが分かった。DNA型が導入されるのは30年先の話で、個人の特定とまでは至らないのが当時の科学捜査の限界であった。
神父には事件前後のアリバイがあった。武川さん失踪の8日午後は、調布のサレジオ神学校で催された祝賀会に同僚らと出席し、19時頃にドン・ボスコ修道院に戻って夕食。20時過ぎに翌日人に渡すためのバイブルケースを取りに同僚神父2人と四谷のドンボスコ出版へ出掛け、21時過ぎに修道院へ帰着し、雑談などをして22時過ぎには就寝したという。翌9日も同校の式典で6時半ごろから調布に一日中滞在し、ミサへの参加や儀式の司会役などに追われ、夜21時半ごろに修道院に帰ったとした。10日もいつも通り5時に起床、6時にミサを行い、6時半には他の神父と友愛会修道院へ出掛けていた。一部の証言に多少の食い違いはあったが、親しい教会関係者は間違いないと証言した。
平塚によれば「これが絵にかいたようなかっちりしたアリバイなんだよ。かえって不自然で、疑問点もたくさん出てきたけど、外人相手じゃ思うようにいかなかった」と振り返っている。
修道院での就寝時間なども深夜にこっそりと抜け出して密会できた疑いもあるが、教会側は、ベルメルシュ神父の寝室はついたてを隔てた隣りに不眠症の老修道士が寝床としていたため、抜け出しや車の音に気付かぬはずがないという。調布で観劇していたとされる時間帯に目撃者が少ないことを追及するに、教会側は一番前の席で教会関係者と座っていたためだろう、と主張する。
だが客観的なアリバイの証拠として、8日14時過ぎに調布に出向く前に荻窪で、9日15時半頃に調布から神父直筆の電報を送っており、調布から戻った20時45分過ぎには新宿西落合のガソリンスタンドで給油に訪れていたことも判明した。
事件後、現場付近でタイヤ痕が発見されたと報じられた時期に、まだ充分使える状態のルノーのタイヤを全て新品と取り換えていたことなど、神父と教会側を疑い出せばきりがなく、かたや武川さんの交友筋で神父以外の目ぼしい容疑者は浮かんでこなかった。
 
4月上旬、ベルメルシュ神父は旧知であったオディリアホームのレーマン院長の元を訪れ、「宣教のためこの地に骨を埋めるつもりでやってきた大好きな日本でこのような目に遭うとは」と警察から疑われている現状を嘆き、「私にだって間違いはある。しかし人を殺すようなひどいことをどうしてできますか」と訴えていた。
4月12日、NHKのカメラが横浜の出入国管理局に訪れた際、内々に手配されていた神父の写真がクローズアップされたことで容疑がかけられている事実が発覚した。教会側はすぐにカソリック系ニュース通信「東星ニュース」で「うわされているベルギー人神父は、八日も九日も他の神父と行動を共にしていたことがわかったので、事件とは無関係である」と声明を発表した。
 
5月に入り、捜査本部は修道院を訪ね、任意同行を求めたが、神父及び教会側は事件との無関係を主張し、「教会内でなら構わないが、出頭しての事情聴取には応じられない」と出頭を拒んだ。
しかし捜査当局としてもすでに八方手を尽くしての最後の重要参考人であったことから執拗に食い下がり、弁護人とバチカン大使である神父の立ち合いの元ということでようやく合意を取り付け、11日から任意の取り調べが行われた。神父は日常的な日本語であれば話すことができたが取り調べは通訳を介して行われた。
後に「落としの八兵衛」と謳われることになる平塚も、はじめての外国人相手、弁護士や神父に囲まれての取り調べに緊張し、第三者を挟んでのやり取りによって言葉のニュアンスも捉えどころがなく、表情の機微など日本人相手とは勝手が違うことで大いに苦戦したと振り返っている。
ドン・ボスコ修道院の内情や出版事業の展開、神父の日常生活など事細かに聴取を行うも、こと死亡前後のアリバイ、被害者との男女関係に追及が及ぶと「知らぬ存ぜぬ」の一点張りで、事あるごとに神父は字引を引いたとされる。平塚3度、平塚の上司で捜査一課キャップの加藤勘蔵の2度の取り調べでも核心に迫ることはできなかった。神父の証言に食い違いがないか、調布の神学校などでも裏付け捜査が続けられていた。
5度目の聴取の翌日22日、ベルメルシュ神父は「過労による衰弱」により聖母病院に入院。入院前には修道院の仲間に「この事件が明らかになるまで、私は疑いを背負って二ヶ月でも三ヶ月でも、じっと堪えていかなければならない。しかしそれが天主さまのみ摂理であるならば、私は待つ」と語っていたとされる。

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入院後、朝日新聞は駐日ローマ法王庁ド・フルステンベルグ行使に事件に関する感想を求め、行使は「神父に代わり、自分の責任において、彼の潔白を断言する」と回答。
英国滞在中の女性に手紙を送った事実はあるが、修道院長の許可を得たうえで返信したもので地図以外には何も同封されていなかったとし、修道士として個人的な身の上相談
の相手になっており必要性あってやりとりだったとした。(ドン・ボスコ出版の人たちが武川さんを喜ばせようと発案して1000円近くの珍しい記念切手を貼ったことが一度あったという。)
神父のアリバイは8日午後から9日いっぱいまで多くの証人が述べており、確実であるとした。神父と武川さんが最後に会ったのは3月5日で、そのときロンドン土産の皮手袋を貰い、神父は「空を飛ぶ仕事は危険な仕事だし、誘惑も多いだろうから注意するように」と話していたという。下宿近くの京王明大駅付近まで送ったところ、車が故障して修理してもらったことは事実とした。その際、彼女に「英語で書かれた都内の地図が欲しい」と頼まれ、彼女の下宿を中心とした略図を書いて送ったとされる。神父はBOACに提出するものだと考え、理由も聞かずに求めに応じたという。
神父は2か月来名誉を傷付けられるような噂に驚き痛めつけられ、さらに5日間延べ40時間にわたる取調べで衰弱して入院したが、特別の病気ではないと分かったので、また出頭を求められれば応ずる用意ができている旨を長文で回答した。
 
弁護士を通じて、警察では6度目となる取り調べも予定していたが、6月11日夜、入国管理局から高井戸署にベルメルシュ神父が19時半の便で出国したとの連絡が入った。
サレジオ会神父ベルメルシュ師は 当局に対し、お話すべきことはすべてお話しましたが 事情聴取が長期にわたりましたので、持病の胃病が悪化し、 疲労もはなはだしいので、一時ベルギーで休養させることとし、 六月十一日帰国のため羽田を出発しました。
サレジオ会日本管区長ヨハネ・ダルクマン(原文は英文、 教会側の日本訳)
持病の胃弱が悪化して食欲不振を訴え、体重が10kg近く減ってしまっていたと言い、本人は「警察の方からシロだと断定されぬうちに出発したら 逃げたようにいわれるかもしれない」と気にしていたが神経衰弱の様相が伝えられたことから、管区長が帰国の命令を下し、教会が手続きを行って帰国の途についた。捜査本部からすれば、教会側から何の連絡も受けていない寝耳に水の緊急帰国であった。
 
12日正午、新井裕刑事部長が記者会見を行い、神父を容疑者として強制捜査できる材料は今のところ出ていないとした上で、「最後のカギ」を握るとされた重要参考人不在の状況で「欠席捜査」の見通しを示した。
ひとつに厳しい教理を保っていたと主張しているが、被害者と神父との関係は認めがたい点があること、また修道院内の行動について客観的アリバイとは認めがたいとの見方から、引き続き調べを継続する方針とした。
また修道院ではさる4月初めの段階で、ベルメルシュ神父のそれまでの役職を解き、後任者まで決めていたことを突き止めており、捜査本部は事件直後から出国が計画されていたのではないかと教会ぐるみでの事件隠蔽を示唆した。
 

その後

捜査当局は身柄引き渡しなどの外交的措置をとることなく、事件は迷宮入りとなった。
その後、新井刑事部長の特命により平塚が西宮の被害者の実家を訪ね、捜査経緯を遺族に説明した。話が2人が原宿のホテルに入った段に及ぶと、遺族から「刑事さん、もう結構ですよ」と話を遮られた。
「神父が若い女性と密室に入るということは、これはもう許されないことです。あえて、それがなされていたことが第三者の証言ではっきりした以上、私共は納得できます」とそれ以上の説明を断ったという。

ボーイング707型機、Idlewild Airportにて Photographed by Jon Proctor

1959年、事件を受けて猪俣勝人監督が映画『殺されたスチュワーデス 白か黒か』を発表し10月6日から大映で封切られたが、カトリック教会からの非難を浴びて差し止めとなった。
世間の大方は神父と被害者の痴情のもつれと推理したが、同年、作家・松本清張も本事件を題材としたフィクション『黒い福音』(1961)を週刊コウロン誌上で発表して物議を醸した。婦人公論で発表していた推理を元にした国際密輸ルートに関わる謀略ではないかとする内容で、後年テレビドラマ化もされている。
事件と同じ59年にBOACでは宝石の密輸、麻薬の密輸などに関係して多数の免職者を出しており、神父もまたサレジオ会の資金工作を担当していたことから、彼女を工作員に仕立てようとしていたのではないかとする筋書きである。
作家・遠藤周作らはあたかも真犯人と決めつけた報道に人権蹂躙であると非難を強め、三浦朱門らは犯人でないのであればなぜ積極的に捜査協力しないのかと疑問を呈するなど、多くの文化人が意見を述べた。
 
事件との関連は不明だが、翌1960年3月28日、教皇ヨハネ23世によってカトリック東京大司教区の土井辰雄大司教が日本人初となる枢機卿に親任されている(のち日本カトリック司教協議会会長)。
事件と直接関係はないが、1966年3月5日、BOACのボーイング707型機が富士山付近で空中分解する事故が発生し、乗員11名・乗客113名が全員死亡する大惨事も起きている。飛行高度が低かったことから山面で発生した乱気流に巻き込まれたものとされる。
1974年、本スチュワーデス事件の殺人罪の公訴時効が成立した。
 
 
筆者の見立てでは、複数犯による強姦であり、それも教会関係者で、教会ぐるみでの隠蔽も事実と考える。また時代状況から見ても、資金繰りのために信徒に密輸・密売を手伝わせる松本陰謀論も大いにありうることのように思う。信仰という人間の生活態度がいとも簡単に純粋で真面目な人々をも犯罪行為に走らせてしまうことを私たちは知っている。
今日でも外交問題に発展したり、人権問題に抵触して過度に注目を集めるおそれがあることなどから、警察は外国人犯罪に対して及び腰だといった批判もある。だが外国人犯罪に強い捜査班も組まれるようになっており、停滞した取り調べももっと首尾よく進められるようになったにちがいなく、DNA型鑑定技術があれば「白か黒か」をはっきりすることができただけに悔やまれるコールドケースである。
 
 
被害者のご冥福をお祈りいたします。